2020年6月20日土曜日

(不定期連載その1、2)紫波郡の気になる神社の推考

(不定期連載その1)紫波郡の気になる神社の推考
0:はじめに
志賀理和気神社と水分神社の関係を定説と異なる方向から想定してみる。googleマップ図は古代城柵、寺社祠との位置関係を国土地理院地図神社マークも合成した一部。



(不定期連載その2)紫波郡の気になる神社の推考
志賀理和気神社と水分神社の定礎について
1:探索のきっかけ
古代城柵や寺社の定礎には、ある一定の見通しラインを決めてその位置を確定したと想定し、その手法を追試しているものである。独断専行、我田引水、「厚顔無恥」や「牽強付会」を混成しても呆れるほどの理屈の無知を御笑読あれば幸い。

志賀理和気神社という名称に和気清麻呂や全国に40社ほどみられる和気神社を想いながら、この紫波町に鎮座まします志賀理という呼び名に違和感をもっていた。つまり何かの当て字読みではなかろうかとの鋭き洞察だ。後で町役場から照会された『紫波郡の神社史:佐藤正雄氏著(S53)』によれば“しがり”はマタギの統率者を“シカリ”と呼称することから、地元神であるシカリと和気を合体させ“志賀理和気”としたと結論づけている。
志賀理和気神社は式内社で旧社格は県社。式内社は延喜式神名帳に載る当時最北端の「官社」に指定されていた由緒ある社格である。坂上田村麻呂が勧請したといわれ、それ程に古い神社である。
いや神社とは古いことが当たり前で古神道は現在の神道よりも自然崇拝的な発生からくる人間が本来有する畏敬の念から祠、洞窟、湧水、火山、島、山岳山頂、大樹、星、月、太陽などを崇める慣習が根本理念か。
和気神社は和気清麻呂など和気一族の偉大さを祀ったのが発端で、全国に広まる。特にみちのく東北では、おっと此の“みちのく”とは“未知の奥”で“東北方面”つまり大和中央政権の位置からみて東北方面なのである。北上川の “きたかみ” は“日高見”であり陽が高く昇り始める場所なのです。何故我らは北を上にして地図を視るのか、その慣習の癖、暗黙の了解を知らずして地形を語ることはできない。
自分が向かう方角を常に上にして、例えばカーナビの一つの手段がそうすることを促すのである。それでも地形を理解することはできる。となると各人が各々勝手な方向を向いて頭の中に地図を描く。統一の無い芸術作品が出来上がるというものだ。
『統一する、規則的に行動する、』ことが国家を形成するうえで重要な事だ。だが為政者はいつの時代でもそうであり、これからも同様の繰り返しだと想定するが、その歴史を都合よく束ねてしまう。
田村麻呂の遠征は、大和朝廷が大国主を自滅に追い込んでから数百年経った頃、白鳥になったヤマトタケルや猿田彦道祖神やストリッパー天宇受賣命も踏み越えて、鈴鹿川の百鬼夜行のヒメを同行してというか勝手に田村麻呂にほれ込んで憑いてきたその立烏帽子姫を伴って紫波の蜂神社辺りに到着した。田村麻呂もまた精力絶倫であちこちで地元の娘を誘惑し懐柔策で進軍する。ために、云わばゆでガエル状態になった地元原住民は、阿弖流為のように蝦夷の未来を見据え大和の矛盾を突いてくる指導者が懸命に戦っても歴史が示すが如く刑場の露と消えたように、のらりくらりの同化作用化学反応により繰り込み現象が幅を利かせていったのです。。
紫波の太田神社は大いなる田村麻呂さまの休んだ処、烏帽子姫を休憩させ奉った場所であろう。現在は県道285号線と五内川との交点鈍角部に鎮座している。
岩鷲山の悪路王を退治した田村は、自らを岩手山の大権現とし、鈴鹿御前を乳頭山に、娘の小りんを姫神山に配置した。早池峰には元来の地元神が鎮座ましまし、この4座は現在に至るまでも晴れたり曇ったり小競り合いを続けている。
図は天の鳥船の想像図 まるで気球ですたい!

早春岩手富士