2020年12月7日月曜日

弘前城の定礎に係るライン交差の推測

弘前城は中世の城郭であるが、この城の定礎もまた2つのラインの交点上に定礎されている。

縄文期から建造物の位置を決定する手法として、このライン交点法が採用されていたとみる。即ち岩木山と十和田御倉山と本貫の地である久慈城を結んだライン上に位置し、尾崎山と秋田駒、更に偶然か平泉中尊寺の山王岳を結んだラインの交点に定礎された。


岩木山とと久慈城を結ぶ↓

久慈城の位置↓

十和田湖の見通しの良い山頂↓

弘前城のライン交差点↓

岩木山と弘前城下↓

尾崎山↓

秋田駒↓

中尊寺山王ヶ嶽↓ 但し地理院地図上に山岳名はないので、地元で呼称されている山名


では、不動点である岩木山と御倉山と本来は動点である久慈城
即ち定礎すべき寄る辺とでも呼ぼうか、を結んだ過去があったはずだ。それは久慈城の位置を決定する根拠となる。その2点こそが是川遺跡と館石野遺跡という図根点になる。その遺跡を見通したライン上に、岩木、十和田の三角点を結んだラインを延長して、久慈城は定礎された。多少の誤差はあるが、正にピタリとした測量技術なのである。

としか思えないほど、ラインを引けばそうなるが、偶然だろうと詰問されれば証拠、今はやりのエビデンスと云うものがないので、つまりそのように建造物の位置を定めたのだという古文書がない、口伝だという書き物すら見つからないので編集子の節操の無い書き物だと云われても致し方無いのだ。
山伏とマタギの先祖が縄文時代からの測量集団で、そこに古代日置一族のテクノクラートが加わり、大和朝廷時代に全国を測量しまくったと想定している。


 

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